CFLに挑戦中の町野選手(京大)と山崎選手(阪大)にオンラインインタビュー!【第二弾】
京大・阪大オンライン対談第2弾。CFLにドラフト指名され、世界に挑み続けている京都大学OBのOL町野友哉選手(2015年入学、現富士通フロンティアーズ)と、大阪大学OBのK山﨑丈路選手(2013年入学、現オービックシーガルズ)。前回に引き続き、お二人の対談をお届けいたします。お二人が大学時代の部活動で何を感じ、なぜ卒業後に海外を目指そうと思ったかについて聞いてみました。
■試合前に涙した関学戦(町野)/キックと向き合った4年間(山﨑)
――大学時代の4年間は、振り返ってみてどうでしたか。心揺さぶられたシーンは?
町野)心揺さぶられた試合は、4回生の関学戦。試合前のアップの時から泣いていました。入学した時から、先輩には「関学は京大の永遠のライバル。関学にさえ勝てればいい」というマインドを日々叩き込まれていました。
1回生の時もベンチ入りしていましたが、シーズン初戦の立命戦の試合前に先輩たちが泣いていたんです。それは、高校まで野球をやっていた自分にはあり得ない経験で、どれほどの想いや努力を重ねてきたのかと圧倒された記憶があります。
その時は試合前に泣く気持ちが分かりませんでしたが、4回生の時には自然に涙が出てきました。どれほどの時間や想いをこの一瞬にかけてきたか。これは京大アメフトでしか経験できないことだと思いますし、貴重な経験でした。大学4年間、関学に勝つために、これだけ一つのことに取り組めたのは本当に自信になるし、これからの人生の支えにもなります。
町野選手提供
山﨑)4年間を振り返ると、不完全燃焼という感じでした。キッカーをやりたくて部に入ったけど、キッカー専任にはなれなくて、やりたいことに100%捧げられない状況に悶々としていました。関東のDiv.1ではキッカーとして名の知れている人もいて、「自分も違う環境でやっていたら…」と。
2回生の時、RBをやっていて右足首を骨折し、手術しないと治らないと言われました。大事な右足を怪我して、また蹴れるようになるのか不安な日々でしたが、ボールを蹴る行為が自分の中でこんなに大きなことなんだと気付かされました。本当にキックが好きなんだと。
上級生とも話して、その1年だけはキッカー専任でプレーしました。Xリーグにも勉強に行って、2回生ながら結構、結果を出せました。何かの試合がターニングポイントになったわけではありませんが、キックに対する想いに気付かされたのが、2回生の時の怪我とシーズンでした。
――その鬱屈とした思いと、大学時代はどのように向き合っていましたか?
山﨑)ビフォア(練習前)とアフター(練習後)は全部、キックの練習をしていました。キックには余暇も全て捧げて人とコンタクトをとったり、YouTubeを見たり。そうすることで自分のメンタルを保っていましたね。
山﨑選手提供
■他競技の経験を糧に
渡部)他競技の経験が役立ったこと、逆にアメフトで苦労したことや戸惑ったことはありますか?
町野)野球では、体をうまく操作するなど基礎的な運動能力が高まったかなと思います。野球の守備の動きがアメフトのステップに生かされたところもあります。
戸惑ったのは、人と当たることに慣れる必要があったこと。当たることがほとんどのポジションですが、恐怖は3回生まで拭えませんでした。一番必要なのは、強くなって自信をつけること。フィジカルに自信がないと怖いので、恐怖を拭うためにもトレーニングを頑張りました。
山﨑)僕の場合は蹴るという部分でサッカーの経験がストレートに役立っていますね。アメフトとサッカーで蹴り方は違うので研究しましたが、体をしっかりと固めてボールにヒットするのは同じ。そこはサッカーで培われていたので、ベースがあって勝負できるのは大きかった。
質問の意図から外れるかもしれませんが、逆にキックが他の動きに生かされていると感じることが多いです。キッカーって動きが少ないので、本質を突き詰めやすい。それを掘り下げるほど身体能力も上がるし、他のポジションもうまくなります。どの競技をやっていても、動きの本質を理解していれば転用できるのかなと感じます。
苦労したのは町野と一緒で、人と当たらないといけないという点。もともと人と当たるのは苦手なんですが、キックがしたくてアメフトを始めたので、他の要素は仕方ないと受け入れています。
(大学では)WRもRBもやっていましたが、できるだけ人に当たらなくていいように走ることを考えていたので、結果的にルート取りや駆け引きがうまくなりました。必ずしも人と当たることを克服しなくても、それを強みにできるところもあるのかなと。
■海外挑戦 「ハチャメチャ葛藤」(山﨑)/「得られるものあるのか」(町野)
――卒業してから、なぜ海外挑戦をすることになったのか教えてください
山﨑)4年間向上心を持ちながらも、発揮できる場がなかったことが根本にあります。キックがうまくなりたいとやってきたんですが、周りには認められづらい環境だったので、「自分はどれくらいの立ち位置なんだろう」ということにすごく興味があった。
4回生の冬に、アメリカのカレッジ4年生向けのコンバインに参加させてもらう機会がありました。向こうのトップレベルの大学のキッカーも参加する大きなコンバインでしたが、その中でも「戦えるな」という数字を残すことができました。「俺、頑張ったらいけるやん」と感じて、NFLがうっすら頭をよぎるようになりました。
引退して5回生コーチをしながら就活もしていましたが、第一志望の会社に最終試験で落ちて、自分が本当にしたいことについて改めて考えさせられました。就活で自己分析をしている時もアメフトのことしか書いていないし、エントリシートにもキックをうまくなりたいということしか書いていなかった。キックを突き詰め続けたいというのが本心だと再確認しました。
社会的に見たらわけのわからんことだし、「阪大に入ったら、良い企業に入ってお金を稼ぎながら家庭を築いて、ちょっといい暮らしをして生きるのが普通」って考える自分もいました。でも、やりたいことがある自分もいる。すごく難しいなと感じていましたが、自分の根幹を思い出すと、「やりたいことをやるのが人生において一番良いことなんじゃないか」と。じゃあもう、社会性とかは一旦おいて、キックを追求しようと。
キックを追求することに具体性を持たせるため「NFL選手を目指すと言ってしまった方が良くないか」と考えました。5回生の夏頃に決意して、具体的な挑戦を始めました。
言い始めた時は、親も含めてみんな半信半疑で、親しい周囲の人は、「やりたいことやったら頑張ったらええんちゃう」という反応でした。コンバインである程度、結果を出すようになって、名前も少しずつ売れていってからは、親も応援してくれるようになりました。結局は、自分がやりたいと決めた気持ちに対して、どれだけ正しいステップを踏んで結果を出せているかということだと思います。
町野)僕も4回生の11月頃に引退して就活を始めましたが、最初は社会人でアメフトをやる気すらありませんでした。ただ、自分の中でしっくりこないというか…自己分析をしている段階では、社会に出て企業に勤めて働くことにあまりワクワクしないし、やりたいことも特になくてモヤモヤしたところがあった。
自分の軸には「今しかできないこと、今だからできることをワクワクしながらやりたい」という思いがありました。
「やるなら突き抜けてやってみるのも面白いんじゃないか」と海外挑戦を考えるようになりました。自分がOLとしてどれくらいの位置にいて、将来性がどれくらいあるのか、その時点で全然わからなくて。NFLは本当に雲の上の存在、自分じゃ足元にも及ばないと思っていました。それでも目指してみたい思いがあったんです。
4回生の時、元NFL選手のクリスさんというコーチが臨時で練習に来てくださっていました。その方が「町野はNFLを目指さないのか」とおっしゃっていたと、コーチから又聞きしました。すごく後押しになったし、自分でも挑戦できるのかなと思った。それからいろんな人に相談するようになって、タケルさんのところにも行きました。
当初は海外のどのリーグでも、という気持ちで「海外挑戦したい」と言ったら、タケルさんに「NFL目指さんかったら、そんなん無理やで」って結構真面目に言われて…。やっぱりそのくらいの覚悟を決めなあかんのやなと思いました。
山﨑)そんなん言ったっけ?(笑)
町野)「海外リーグって、そんなふんわりしたのじゃあかんで」って言われました。
いろんな人に相談したんですけど、みんな「面白いやん」とか「それすごくいいね」って言ってくれて。否定する人も「絶対やめとけ」って言う人もいなかった。そういう声も後押しになって、5回生の5、6月頃に、しばらくアメフトに専念して本気で海外挑戦しようと決めました。
――2人は、戸惑いはなかったんですか?
山﨑)「ハチャメチャ」葛藤しましたよ、僕は。コンバインに行った2月から、就活した7月くらいまでずーっと、自分にとって何がいいんだろうと悩みました。「やりたいことをやりたい自分」と、「社会性のある自分」が戦って、半分くらい心を病んでいたと思います。
でもやっぱり、やりたいことやっている自分をチョイスした方が、精神衛生上いいなと考えたことが大きかったと思います。
――町野君は山﨑君に相談しに行ったところに悩みが見えますが
町野)やっぱり現実的なのかどうかってところがあって、本当に悩みました。本気で全てをかけて努力したところで、NFLというのが届く世界なのか、自分の現在地との距離感が本当にわからなくて。確率的にもそうですし、色んなものを捨てて目指すだけのものが、得られるものが本当にそこにあるのかなと。NFLを生で見たこともないし、行くために何をしたらいいかもわからない状況で決断しなきゃいけなかったので、本当に悩んで決めました。
――自分の人生を決めるかもしれないコンバインに臨む心境、かける思いはどうでしたか
山﨑)コンバインに臨む心境は毎回同じです。ベストパフォーマンスを出す準備をして、出すだけ。限られたチャンスの中で自分の実力を出すことも見られています。日頃からそれができるようにしていたら、プレッシャーもそこまで大きくならないと思っていたので、自分の持っているものを出すだけだと臨んでいました。
もちろん最初の頃は「自分はもっとできるはずなのに」とか「結果を出すにはどうしたらいいのか」って悩むこともありましたけど、結局は準備。自分がコントロールできることだけにしっかりとフォーカスすると捉えれば、やることは変わりません。ベストを出すだけです。
ベストを出して結果がついてくるかどうか、くらいの世界だと捉えれば、大きなものとしてのしかかってくることはない。常にそういうメンタリティーでした。もちろん人生がかかってはいるんですが、だからこそベストパフォーマンスを出すために平常心で臨みました。
町野)(当日は)あまり緊張はなかったですね。測定系の数値は以前から自信があったので、今のベストを出せればおのずといい結果が出ると思っていました。とにかく怪我をしないとか、いかに当日ベストを出せるかということに、すごく神経を使いました。
5回生の時など、ドイツやアメリカで何度かコンバインに参加しましたが、ドイツでのコンバインの直前に怪我をしてしまったことがありました。数値を上げよう、上げようと頑張って練習し過ぎたからですが、その経験がものすごく教訓になっています。直前まで能力を高めるのも大事ですが、当日に何も出せなかったら、過程は全く見られない。スカウトやチームは数値だけを見ます。いかに数値をちゃんと出せるか、体調や体を含めてどう持っていくかが大事だと実感しました。
◎町野友哉 Tomoya Machino
1997年3月16日、岐阜県大垣市生まれ。大垣北高校から京都大学工学部に進学。小学校から高校まで野球を経験。大学で始めたアメリカンフットボールでは、一貫してOL。長身と巨体を生かしたプレーが持ち味。2018年、大学日本代表に選出される。2019年にはアメリカやドイツでNFLやXFL(共にアメリカのプロリーグ)のトライアウトに参加。2020年、富士通に入社し、富士通フロンティアーズに入団。CFLドラフトでは2巡15位でWinnipeg Bluebombersに指名された。198cm、140kg。趣味はドラマ鑑賞。
◎山﨑丈路 Takeru Yamasaki
1993年9月2日、大分県大分市生まれ。大分上野丘高校から大阪大学に進学。小学校から高校までサッカーを経験。大学でアメリカンフットボールを始め、KのほかWRやRBとしてプレーした。長距離を苦もなく決めるキック力が魅力で、練習では73ヤードFGを成功。2017年にエレコム神戸ファイニーズに入団、2020年にオービックシーガルズに移籍。CFLドラフトでは3巡19位でBC Lionsに指名された。173cm、83kg。趣味は、動きの勉強と自然鑑賞。