1947昭和22年
当時、進駐軍に勤務していたJ・ピンカーマン氏が初代監督を務める。
1966昭和41年
関西学院大学に0-114で大敗。
1974昭和49年
アメリカへのフットボール留学から帰国した水野彌一が「打倒関学」を掲げ、着々とチーム強化を図る。パスの関学に対し、オプションプレーによるラン主体の京大アメフトが出来上がる。
1976昭和51年
当時145連勝し無敗を誇っていた関学に21-0で初勝利。しかし、プレーオフで関学に敗退し、甲子園ボウル出場ならず。
1977昭和52年
「涙の日生球場」とよばれる京大対関学の名勝負。試合は雨の中行われ、京大優勢で前半は進むが後半に関学が逆転、最後の1秒まで目が離せない試合となった。結果は21-29。これ以降、京大対関学は「京関戦」と呼ばれる注目カードになる。
1982昭和57年
試合中の不慮の事故が原因となり、当時エースRBであった藤田俊宏選手が亡くなる。彼と誓った悲願を達成するべく、奮い立った京大は、ついに関学を下し名実ともに関西学生リーグ1位となり、甲子園ボウル初出場。しかし、関学戦に全てをかけた京大は、関東学生リーグ1位の日大に28-65と大敗する。
1983昭和58年
戦力的には前年から喪失が少ないものの、定期戦での東大・防大に連敗するなど、春のチーム状況は決して良くなかった。しかし、秋シーズンに突入し、見違えるほど変化を遂げ、甲子園ボウル出場。甲子園ボウルでは日大を30-14で下し、学生リーグを制す。さらに、ライスボウルでは社会人1位のレナウンを29-28と一点差で下し、ついに日本一に輝く。
1986昭和61年
近年最強と言われながらも、リーグ制覇のならなかった前年を受け、コーチングスタッフの改革などが行われた。また、QBに「怪物」との異名を取る東海辰弥を擁し、甲子園ボウルでも49-28で日大に勝利を収める。続くライスボウル、社会人1位のレナウンに35-34で薄氷上の勝利。二度目の日本一を達成。
1987昭和62年
前年度のスタープレーヤーである、東海・屋敷らを残した京大は、全勝でリーグ戦を終え、甲子園ボウルでは41-7で日大に、ライスボウルでは42-8でレナウンに対し大勝を収め、二年連続の日本一に輝く。
1990平成2年
開幕4戦目にして、関西リーグ内に全勝のチームがなく、立命、神大、京大の3校が1敗という戦績であった。当然、立命・京大が1敗同士で優勝決定戦を迎えると思われたが、立命が近大とまさかの引き分け。京大−神大戦が優勝決定戦となり、注目を浴びる。京大はこの試合に45−0で完勝し、関西学生リーグ優勝。甲子園ボウルに出場するも、日大に敗北を喫し、ライスボウル出場はならなかった。
1991平成3年
関学と同率の6勝1敗で関西学生リーグ1位になるも、プレーオフで関学に23−30で敗北。
1992平成4年
前年のスターターの多くが引退し、再建色濃厚とされた92年。だが、圧倒的リーダーシップを持つ闘将・里に率いられたチームは、下馬評をものともせず、関西リーグ優勝、甲子園ボウルに出場。甲子園ボウルでは法政大学を17−7で下し、学生日本一となる。
1995平成7年
関西リーグ優勝を懸けた対立命戦で、立命の猛追をふり切り、7−3の劇的な勝利を挙げる。甲子園ボウルでも法大に勝利、ライスボウルに出場し、35−21で松下電工を下して4度目・史上最多の日本一に輝く。
1996平成8年
史上初の京大・関学・立命3校によるプレーオフ。このプレーオフを制した京大は甲子園ボウルでも法大を制し、学生日本一。
1997平成8年
創部50周年を記念し、ハーバード大学と記念試合を行う。体格差を感じさせない好勝負を演じるも35−42で敗北。
2003平成15年
全勝で迎えた立命戦で敗北。関学に勝利するも、あと一歩でリーグ優勝を逃す。
2007平成19年
創部60周年を記念し、日本大学と記念試合をおこなう。
2011平成23年
水野彌一監督が退任を表明。西村大介ヘッドコーチが新監督に就任。
2013平成25年
農学部グラウンドが人工芝化。